眼鏡の妄想日記 -32ページ目

これが若さか!? んなわけない

こんにちわ。今日10cm以上あった髪を半分以下に切った眼鏡です。
そうしている間にも眼鏡の中のバナナが僕に話しかけてきます。

バナナ「ごめんなさい・・・。私、傷つきやすくって・・・。」

まぁ頭の中でバナナが人間みたいにこの言葉を喋ったら面白いかなって思っただけなんですけどね。それも哀愁を帯びて。バナナ傷みやすいしね。ネタいきま~す。




  ネ タ が な い !




まぁないわけではないんですが、こう考えがまとまらない・・・。早くも挫折です。今朝考えたことも忘れる始末。くぅ。やはり一人では引き出しに限界が・・・。限界くるの早いって?まぁ許してくださいよ。
 というわけで、何かテーマ募集です。どんなくだらないテーマでも構いません。難しくても構いません。僕の脳が対応できるかは問題ですが・・・。頑張ります!


今眼鏡はあなたのネタを求めてます!


勿論自分でも考えます。やっぱ最初みたいの毎日だと結構きついかも
今日は今日とて旅に出てみたい眼鏡でした。
そういえば他の人の記事にコメント書くかどうか・・・なんか悩むな・・・。どうするかねぇ。

ある種連鎖的なもの

 こんにちわ。もう坊主にするのやめようかと思ってる眼鏡です。
 高1までしたことなかったんですが、結局は切る時の気分だろうなぁ。まぁ今回のネタいきますね~。

 僕はよく好きで戦争ものの映画やゲームなんかを見たりしていたんですが、そんなときに良く出てくるのが「憎しみの連鎖」なんて言葉です。直接言葉で出てこなくても大体これと絡むことが多いように思います。まぁ当たり前といえばそうなんですがねぇ。「憎しみの連鎖」っていうのは、まぁご存知だと思うので触れないでおきます。他にもよくあるのは感動(感情)を共有することですかね。学生時代によくある体育祭、文化祭や、部活動での各種大会などではみなさんもしたことがあるのではないでしょうか。
 これで言いたいのは、感情は人から人に移るものだということです。これも聞いたことある気がするんですけど、まぁ深く考えないで。
 例えば僕が誰かに罵られたとします。それを受けて僕は怒ります。怒った僕は僕を馬鹿にした人に文句を言いますが、それでは収まりません。その雰囲気は周りの人に伝わっていき、その場の雰囲気を悪くします。怒りが収まらない僕は僕に話かけてきた人にその態度のまま接してしまいます。僕の態度に相手も気分を害します。その人が怒ります。・・・
 こんな風に一人から始まったあまり良いとは言えない感情の変化が他人に伝わることは多くあると思います。実生活では多くの場合どこかで止まりますが、一人目の人間の感情が強いと、その連鎖は長く続き安いように感じました。強い憎しみが続いてしまうのも納得です。
 では、良い感情の変化は続かないのでしょうか?僕はそんなことないと思います。現に集団での感情の共有では、楽しいだとか、嬉しいだとかの感情の変化があります。集団の中と個人から個人に移るのでは、感情そのものがより多くの人に移る時間が違いますが、それでも確実に伝わるように思います。僕は嬉しいとか、楽しいとか感謝の気持ちとかを表面に出す時には妙な恥ずかしさを感じます。皆さんは感じませんか?そういうことでこの良い感情の連鎖が繋がりにくいのかもしれません。
 これからは良い感情を受けた時に、できるだけ他の人にも還元していきたいと僕は思いました。

 実は今日はあんまちゃんと考えてなかったんです。許して!
本当に今日のはダメですねぇ。漠然とね・・・思ってたんだけどね・・・まとまらなかったわけです・・・。次はもうちょっとちゃんと考えてから書きますよ・・・本当に・・・。もうちょっとくだらないこと考えた方がいいのかもなぁ、とも思ってみたり。
五厘刈りだと頭に当てたタオルが動かなくなるのを思い出して、また坊主にするか悩む眼鏡でした。

文字だけでの感情表現

 こんにちわ。今カチューシャで前髪を止めている眼鏡です。
気持ち悪いって?何せ邪魔なもので、はい。
まだ始めたばかりだと言うのに、既に僕のブログを読んでくれている方はどんな方か気になります。気にするなと言われても気になってしまいます。そんなことばかり考えて、今回のネタをあまり考えないでいると僕の中の丹○段平が僕のことを叱りつけます
丹:「何サボってやがる!」
僕:「でもよぉおっちゃん。読者の皆様が気になるんだよぉ」
丹:「馬鹿野郎!情けねぇ声出してねぇで体あっためとけ!スパーリングするぞ!」といいながら僕のボディにパンチを浴びせる段平さん
僕:「ごふぁ!わかったよ。あっためとくよ。」
       5分後
丹:「そろそろ準備はいいか?」
僕:「おっちゃん・・・。」
丹:「どうしたんだ!?」
僕:「燃えたよ・・・燃え尽きた・・・真っ白にな・・・」
丹:「ジョー!まだ今日のネタも書いてないんだぞ!立て!立つんだ!ジョォォォォー!!」と妄想を終えて早速ネタいきます。今日は文字のみでの感情表現についてです。

 すっかりPCや携帯電話が広がり、以前とは比べ物にならない程メールを使うことの多くなった昨今ですが、皆さんはメールなど文字のみでの感情表現をどうなさっていますか?一口に感情表現といっても方法はいくつかあり、みなさんもその中から時と場合にあわせて使い分けているものと思います。
 表現の方法の種類はとりあえず思いつくもので、「記号などを使って表す」「敬語表現で丁寧に表す」また表現を強くしたりするために「文章そのものを工夫する」ものがあると思います。
 「記号などを使って表す」場合は主に親しい間柄、冗談を言う時などのいわば軽いノリで使うこと、また、「敬語表現で丁寧に表す」場合は公的な場所などで使うことが多いことが多いと思います。「文章そのものを工夫するは」はどちらにも組み込めますが、どちらかと言えば、後者に用いられることが多いのではないでしょうか?
 しかし、実際に書いてみると前者の場合ふざけた印象を与える場合があり、後者では少し淡白に捕らえられるかもしれません。勿論それでも十分に事が足りるとは思います。むしろそういう文面が好まれることが多いことも多々あるとは思います。ですが、少し寂しくは無いでしょうか?
 ネットワーク上での会話のやり取りとして、主に「チャット」と「メール」が挙げられると思いますが、この二つの決定的な差は一回のコミュニケーションにかかる時間の差だと思います。チャットでは相手の反応がすぐ返ってくるのに対して、メールでは送受信それぞれにチャットよりも時間がかかりますし、直接特定の相手に送ります。メールの場合、受信されたものは受信ボックスに保存され、自動もしくは手動で削除されるまで、おそらくチャットよりも良くも悪くも長い間残ってしまいます。事、メールの場合は、特定の相手に直接送るわけですから他のものの影響を受けませんので、与えられる印象の幅も大きく、送った者本人の印象として受け止められるのではないでしょうか?気に入らないメールを削除する行動、これも大きな印象を残すと思います。
 始めにも書いたとおり、普段のメールでは敬語表現と話し言葉に近いものを文面において使い分けをていると思います。ですが、時には相手自分の感情を強く伝えてみたり、保存してもらえるほど相手の心に強く響くものが送りたいと僕は思いました。
 余談ですが、ギャル文字はもしかしたらメール独特の冷たさを埋めるために使っているのかもしれないなぁ。考えすぎですかね?まぁ僕も、多くの場合では仲間意識とかのためではないかと思っているんですけどねぇ。
 
 実は凄く短い小説みたいなものを時には書いているのですが、こういうこと考えているとネタに使える使えるwネタが尽きたら載せるかもしれません。
 それでは、カーラジオがバレンタインの話ばっかりでうんざりだった眼鏡でした。
ん?なぜかって?まず出会いがなくて、もらえそうな相手が周りにいないからだよ!義理も何も無いさ!周りに異性がいないのだから!くそぅorz
この借りはいつか・・・いつか必ずぅぅぅ・・・(悶エ死ニマシタ 

親に似る、飼い主に似る

 こんにちわ。コンタクトを入れるのは少し怖い眼鏡です。
今朝、寝起きになんとなくカサブタをはがしたら出血してしまいました。しかも中々血が止まらない・・・。最後には無事止まったんですが、正直少し焦りました(笑)。今回のネタは・・・表現しにくいな・・・。まぁとりあえず書いてみます。

 我が家では犬を飼っているのですが、犬を飼いだした時やなんかによく聞く言葉に「犬は飼い主に似る」という言葉があります。また「子供も親に似る」と良く言うと思います。この場合の「似る」は見た目のことではなく、印象とでも言いましょうか、そんな風に考えていきたいと思います。
 狼に育てられた人間。ご存知の方も多いと思いますが、昔こんなことがあったそうです。その記事によると女の子が二人いたということですが、発見された当時その二人はまるで狼のような行動をとっていたようで、その中で特に印象的だったのは二人とも四つんばいになって歩いていたということです。普段僕たちは二足歩行ですので、その記事を見るまでははっきりと想像することは出来ませんでした。よく考えてみれば、赤ちゃんも周辺の人間の行動をマネて覚えていきます。立ち上がったり、言葉を話すのも段々とマネをしながら覚えていくわけですから、それを見ることがなければ覚えられるはずもないのがよく分かります。
 犬はどうでしょうか?僕自身犬ではありませんし、犬の育成環境による性格の変化みたいな記事は見たことがありませんので推測の域を出ませんが。おそらく犬もそう大きく違わないのではないかと僕は考えます。犬だって教えなければ「お手」とか「待て」といったことをしてくれるわけではありません。用は人も犬も生まれた直後は、その姿を別にして、明確に分けることが出来ないかもしれないと僕は考えます。何しろどちらも真っ白なのでしょうから。
 ここまできて反発を覚える方もいらっしゃると思います。確かにヒトと犬は種が違いますので、その姿を全体として見た時には全く別の生物です。しかし、ここでは性格や印象というもので考えていきたいと思いますので、直接の容姿や、容姿が印象に与える影響は判断基準に用いないことにします。
 みなさんも、普通の犬と変な犬の違いは人間のそれより明らかに印象が薄いのではないでしょうか?でも僕はそれは僕が人間だからだと思います。犬は人に明確に物事を伝えることは出来ません。それは自分から見て、ある人とある犬の印象を大きく左右するのではないでしょうか?
 さて本題です。「飼い主に似る」も「親に似る」も「育てられた相手に似る」ということだと僕は考えます。親は僕にたくさんのことを教えてくれました。それはいいこと然り悪いこと然りです。僕も飼い主になったときに我が家の犬にいろいろ教えようとしましたし、犬もいろいろ覚えてくれました。ここで言いたいのは、どちらもかなり大きな影響を「育てる側」が与えているということです。さきほど赤ちゃんはマネをしながら物事を覚えていくと書きました。そう考えれば、子供も犬も、結果として親の行動に似てくるのではないでしょうか?それが「育てる相手に似る」という印象を与えていると僕は考えます。
 
 今回はこんなところで終わりたいと思います。ここまで読んでくれた方、本当にありがとうございます。毎度のことですが文が長くて読んでいただけているか冷や冷やしております。まぁ自己満足もあるのでたぶんこのまま続けると思います。
 コメントいただいた方本当にありがとうございます。励みになりました。これからもよろしくお願いします。それでは、最近まで家の近くに安い眼鏡屋さんがあるのに気付かなかった眼鏡でした。

冬にジャージ(薄着)で外に出るのはやめましょう

 こんにちわ。今日は結局眼鏡を掛けなかった眼鏡です。
いやぁ冬は寒い寒い。北風小僧の寒太郎さんいい加減にしてくれ!って知らない人のほうが多いのかな~?まぁいいか。

 どうも最近天気予報を見ていると、日本海側では雪が多いように思います。僕は太平洋側なので実際どうなのかはよくわからないですが、とにかく最近妙に寒い気がします。当たり前ですが、外に出るとダウン、コートを皆さん着ていますね。この前ちょっと薄すぎるかなと思いながら、ジャージ(運動用ではございません)で外を歩いたら寒いの何の。くそぅ、もう冬にジャージで外に出ないぞ!と少し意気込んでしまいました。まぁここまで何でそんな話をしていたかというと、服装について自分なりにちょっと思ったことがあったからです。ファッション関係には疎い眼鏡ですが、ちょっと書いてみます。
 「日本人はよく無個性だ」とか良く耳にします。特にこの言葉には強い反発は覚えません。中には物凄く個性的な格好をした人もいますが、似たような服装が多いのも事実ですから。営業マン、新聞屋さん、郵便局、中高生、大学生、主婦、、、挙げたら限がありませんが、それぞれに制服や、見合った格好というものが意識されています。僕としては、オフィス街を歩く異様にカジュアルな営業マンやなぜかブランドスーツの新聞屋さん、髪型がモヒカンの郵便局員がいても問題は無いと思います。むしろ想像すると楽しいですが、実生活でそのような人がいたら怪訝な目線を向けるでしょう。おそらくみなさんもそうではないでしょうか?
 「日本人は無個性」という言葉の理由としてよく使われるのは「出る杭は打たれる」だとか、集団生活を重視するからだとかを耳にしたことがあります。それはまぁ納得のいく答えではあります。みんなで一緒にというのが美化される社会ですし、目立ちすぎると何か厭味を言われることも多くあります。そもそも制服というのは自分がある集団に属していると自覚させるものでもあると思いますし、それによる抑制効果というのもあると思います。まぁここでは制服の是非はどうでもいいのでこれ以上取り上げません。
 いわゆる日本人の無個性さの理由はこれだけでしょうか?僕は少し違う角度から見ていこうと思います。人(僕だけかもしれませんが)は集団を好みますので同じような格好をすることで仲間だと意識しているのかもしれません。実際に似たような格好をしている友達を見つけて凄く嬉しそうな女性を見たことがあります。逆に、違う格好をすると仲間からはずされる、孤立してしまうというような一種の強迫観念?に捕らわれているのかもしれません。それまで地味な格好をして、似たような格好の友達と付き合っていた人が、突然派手になって派手な友達と仲よさそうに話していたら、それまでの地味な方の友達はいくら仲がよかったとしてもあまりそのことを良く思わないでしょう。初対面で自分とかけ離れた格好をしている人に、「自分とは合わない」というような変な先入観を持つことも自然ですし、実際にそれで友達になれない人は多くいると思います。
 不思議なことに僕は、もし格好別に人々を分けて、グループ別に話をしてみたとしたら、自然とそれぞれの格好である種の特徴(もしくは傾向)が見受けられるのではないかと、まるでそれが当然のように思いました。たぶんそれは、その格好をしている人はそれぞれのファッションの生まれた背景にある理念などを感覚で感じ取っていて、大いに影響を受けているからだと思うからでしょう。
 もしかしたらこういう風に服装をわざわざ種類に分けていること自体が無個性を生んでいるのかもしれません。僕は今まで考えてきて、自分が人を服装の枠で括ってみているのに気付きました。よく見てみれば同じような服でも、色、模様、形、着こなし、合わせているもの、はたまた縫製だって違うでしょう。個で見ればこうなります。ただあまりに細分化してしまったので、~系という風に分類をつけることで似たようなファッションを一回まとめて括っておいたのかもしれません。ただそれが浸透しすぎてしまって、我々個々の視線が個人をグループのうちに無意識のうちに分類しているような気がします。当然周りの人それぞれ個人として見るのは大変なことで、あまり良く知らない人とかを便利な分類に振り分けているだけです。その視線が個性あるものを無個性と感じさせているのかもしれません。

 まぁ僕はファッションはあまり気にしないので、ここで言う便利な分類を良く使います。楽ですからね(笑)。できればまたこの記事にもコメントをいただけると嬉しいです。
 それではまたネタがあれば自分なりの考えを載せたいと思います。番長とチビが合体してゴ○ゴ13顔の変なおっさんが出てくるやつが凄く見たい眼鏡でした。